親の育て方が悪い?

「親の育て方が悪い」・・・
という考え方がいつ頃から流行りだしたのか・・・。

サムライを以って「超越人群」と諸外国から呼ばれていた頃の日本人の精神性は、親が創り上げたものではなく、社会全体が、人は内面的な成熟を以って良しとした空気を大切に暖めていたからこそ出来上がったものなのだ。

人格、あるいは精神の向上こそが生きる目的であり、人間の優劣尊卑は内面を観て計るものである、と。よって、その常識に適う為にと、必然的に教育そのものが人間性に関与することとなり、識者、すなわち僧侶や儒者、国学者らが居を構え、家族外の第三者教育機関として子供を集め、習わせていた。

数知れず現れた「超越人群」は、人と知識により育てられていたのである。

 

良き頃の日本の家庭・社会・教育現場では人格形成こそが教育であるとした価値基準を疑わず、共有していたからこそ子どもは真っ直ぐに育っていた。

が、しかし今は

価値基準の序列が順を変え、真を唱える機関が世の中に見当たらなくなった。

 

家庭も含めた社会的相乗効果により奏でられたコラボレーションが消滅し、子供の行為は全て親の責任にされてしまう。
年長者でさえ人格に対する何をも教えられていない今の世の中で、更に何も学んでいない親の能力だけが問われてしまう・・・。

さらに

 

病的にうつわが小さくなってしまった日本社会・・・。

あれもダメで、これもダメ。
手に負えなくなったら法律を変える。
アリが転んだ程度の事がニュースとなり、最近の子は何を考えているのか分からない・・・などと小心者が憂い出す。
子供たちは、あたかも、ものすごく狭い通路に身を削られながら、しかもどこに向かっているかさえも分からぬまま、口ごたえもせず、奴隷の様に強引に歩かされている。
たった一つの価値観、線路からはみ出したらもう人生は終わり・・・
そんな国、社会で、まともに成長できれば良いが、無理な場合はどうすればいいのだろうか・・・。いや、そもそも人間として生まれ、そして死んでいく人生というものが、そんなにつまらないもので良いのだろうか・・・。

 

親の能力は経済の領域にしかなく、しかし、何かあれば保護責任者として問答無用に切り捨てられている現代。
子どもを満足させる優しさは甘やかしと捉えられ、他方、感情を意識的にコントロールできない若い親が幼児を絞殺してしまう世の中・・・。

何も知らないからである。

学歴という、人間のごく一部分しか表現されないがしかし、雇用のみ考えれば担保にはなるであろう最低限の情報を、本人のためになるかならないかの如何を問わずして必死に飾りつけ、あとは世間の視線に対応していれば良いとした偏執病を生ませる現代社会。これからもどんどん窮屈になるであろう日本社会は、貧困や差別を量産し、片寄り続けることだろう。困るのは、真面目で、素直だけれども何も教えられずに利用されようとしている、今の子供たちなのだ。

子どもの生涯に対し永遠に関与するものは精神である。
一定の扶養期間において善き精神の土壌を固め、長養を誘うこと。
向けるべき気概は、子どもの内側にある心の眼を開くことにある。
ありのままの真実に対する思弁に覚醒しない者は、生命の有意義を味わえない。

家庭には家庭の役目があり、社会には社会の、学校には学校の役目がある。
どれも有意義であるべきだ。が、しかし、家庭の役割の本質が忘れ去られ、学校が無機質化して日本古来の美風を忘れ、あるいは人との関わり方を知らない大人たちが構成する今の社会。

国民に向けたものと自分たちのものとした二重構造をもった政治、行政が支配する日本の将来に、心を踊らせるような生きが見いだせるのだろうか。
時代や国、環境などの変化に関わらずして動かざる真実、本来の生きる目的を教わらず、経済の満足や相対的な幸不幸、的外れな優劣ばかりを気にするから、人間がどんどん単一化されていくのではないか。

私たちは、社会や個人に対し、今まで忘れていた日本の善き潮流を吹き込もうと思っている。
あらゆる意味において限界を迎えている今こそ、必要なことではなかろうかと。

汚い社会に振り回されるのはもう止めて、本物の人間になって、共に頑張りましょう。