学校で道徳は教えられない

歴史の面からみてみよう。

日本において徳治的な要求を社会的指導者が宣揚するべく人倫による民の統治を行おうとしたことが、私の知る歴史の上でだが今までに二度ほどあったようである。

 

まずは聖徳太子の十七条憲法。

「和を以って尊しとすべし」
として知られる世界最古の憲法は、理想的な徳治社会の形成を具現化するべく「和」という仏教概念に政令色を与えたとされているが、こと臣下の規範的要素は全て儒学的な要素を以って忠義を説いていた。
つまり聖徳太子は、「和」を以って忠義をも形成せよとするために、その養分を儒学に頼っていたのである。
日本の道徳は、法という形により儒学から揚力を得て形成され、仏教が人々の倫理性を支えていたということになる。

飛鳥時代から平安時代にかけて学問の首位の座を占めた仏教と儒学は、以降、日本の歴史に随行して発展することとなる。

 

平安朝の頃。
仏教の側より「本地垂迹説」が主張され、仏を本とする神仏同一説が説かれる。
空海の、東寺における稲荷社受容から始まる鎮護、ないしは神仏習合思想の結果である。
鎌倉時代中期になるとさらに発展し、密教の立場による両部神道の教義にもなり、以降、徳川時代まで神道理論の主流として温存されていた。

 

南北朝時代。
つまり復古精神昂揚期には、「反本地垂迹説」とされる伊勢神道が全盛となり、室町時代にはト部神道へと発展する。
熾烈なる武戦が続く頃である。
織田信長、豊臣秀吉と戦乱の将が現われた(ちなみに信長の無神論思想は有名だが)。
一つの国土に分散する独裁国家が併存する時世である。
必然と言えようか、指導者の思惑は戦勝にひたむく傍ら、統治、支配、権力の護持といった、すなわち兵や民の内的な壁面強化に大きく傾倒していった。
そして徳川家康。
すなわち第二の道徳時代がここに来た。

 

家康は、民が天皇に向けていた崇拝心、宗教的な羨望、憧れ、尊敬の矢を、自分に向けるために、あるいは縦社会の軸の強化と権力統治のために、統治者として、儒学(つまり道徳)の宣揚に力を入れた。

藤原惺窩を招き入れ、貞観政要の講義を自らが受け、漢書を習い、あるいは伏見に学校を建て、「孔子家語」「六韜三略」「貞観政要」等を出版した。
この頃より幕府中央の意志が波状的に影響し、それまでは存在しなかった「儒学者」というものも多く噴出した。
家康は、時の学問として儒学を広く奔馬させ、サムライの常用学問として世に設置したのである。
ちなみに、儒者(儒学者)と呼ばれた者らはみな既に仏教の祖流を受けており、あるいは日本道徳とは仏法より得た精神主義なる価値観を土壌にその精神の使用方法として方向づけするべく、社会性を加給したものと定義されるかもしれない。

例えば藤原惺窩が発掘した朱子学は、その興起、唐にてすでに仏教が混入していたため、あえて呼ぶなら宗教道徳と言えようものだった。
それより後、日本人は脳髄を沸騰させつつ儒学を練りに練り、「和学」とでも言うべき独自の道徳体系を成立させていく。

 

封建社会。
つまり厳密なる支配社会であり、階級社会であり、不平等社会である。
これを成立せしめたのも道徳であった。
美しきものである反面、その使用方法如何によればまことに浅薄なものに成り下がるものである。
言うまでもないが、今の指導者(教師)に、その理解と、師としての大役がこなせるはずがない。