戦後道徳は子供を幸せにしない

諸子百家と孔孟子ほか論語系道徳や、アリストテレス、プラトン、マールブランシュ、ロマン主義ルソー、ヘーゲルや、新しくはカントにいたるまでの理性および非理性的形而上学すなわち大別に類させて道徳と呼ばれるものの知群は、全て

「ある種の覚醒した人たち」

により
「大衆の愚行愚知愚考」
を清めるために発せられたものである。

すなわち、自己をある人格にまで育て上げた人群が、それを無知下人に知らせようと、その知を体系化させたものを以ってそれと言い、あるいは社会、すなわち自らも同等に関与する「場」の正常化もしくは体系化を望むべく編纂されたものをそれと言うのだろう。
つまり道徳というものは、極論して人の自由(生物学的な基本欲求)を「高貴高尚高潔」の名の下において統治するものであり、つまり、したいことを死ぬまでしながら生きていきたいという、ある種逆説的に言わせてもらう場合の「衆生的豊かな人生―俗世、歓楽とも言う」というものを否定するものなのである・・・

あなたは、自分に迷惑がかかる事を避けるよりも、人の苦しみを無くす事に寄与するほうが美しいと思っている・・・ならば、例えば一億円の借金に苦しんでいる人に対し自らの全財産を提供するとしたことが善であると思うであろうか・・・

もちろん、善ではない。

深く言えば、それは情であり、情が低級であることの理由にもつながることでもある・・・

このように、利他という思想ひとつとっても混沌としているのが現状なのだが、現代道徳は、一つに他人へのいたわりを工具にし、それを美徳として定めつつ、軽く宣揚しているのである・・・

うわべ道徳・・・

何故なのか・・・。

それは単に、昔に比べて社会、とりわけ子どもたちの精神の未熟さへの恐れが過度に増しているからだと思う。

未熟な社会が怯えつつ呼び起こした(たたき起こした)思想、それが道徳なのであり、しかしその内容は、形式的な、あるいは自己満足的な、言葉よがりなのである。

自由心理の否定と、しかしそれを価値とする事の宣揚は、うわべ道徳には不可能だ。
日本人の、特に指導者や、子どもを持つ者は、早くこの矛盾を瓦解しなければならないだろう。

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日本人が道徳(儒学)というものを活用したのは聖徳太子が始めであり、あるいはそれを利用しようと下家に力強く宣揚(強制)したのは徳川大権現家康が最初である。

聖徳太子は、朝廷の位置を確固とするべく国家(大和的)の整備にあたるためにそれを十七条憲法に加給した。

一方徳川家康が孔子を好んだのは、朝廷に代わって自らがこの国の機構の中枢たらしめんがためである。
下の者は上の者を崇拝すべしとし、忠義孝行の美徳は栄えたが、その頂点に座す、つまり最も上の人物は、自分である。

六十余洲三百諸藩がみなこれを受け入れれば、結果的に世は安泰なのであり、あるいはその体系は、三百年という長きに渡り、徳川家のみならず世の中そのものにも貢献した。

徳川の道徳は、実際には一部幕府の高級官吏か藩主の習い事と化していた様だが、それを原型としつつ、一方諸藩においては、確かに様々の道徳が、種々武士道の萌芽となっていたのである。

世は安泰だ・・・

道徳とは、人の自由心理を統制するものなのだから・・・

この価値を分かるのであるならばであるが・・・然るに、何れにせよ道徳は、世の中に居座る事により社会というものを「大人しく」させる能力があるという事を見事に立証していたと言えるであろう。

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しかし、逆説めいて言えば、社会、あるいは政府機関や教師等指導層の力が希薄化して統治能力を失えば、世は個人主義横行の世となり、乱れるのが当たり前のことであり、よって社会や政府や学校は、統治の術を模索し始めることになる。

「大人しく」するために

道徳教育が必要であると・・・

がしかし、今の層(指導者の質的に)により、例えば子どもたちを大人しくする力はない。

「法の強化」

が、本来(この場においての)の然るべき措置なのだが、現行法においての限界が、適応年齢の中にある。

現状を言うに、結論として、つまり起きて然るべき「道徳教育の必要性」という声は、発声と同時に消えるであろうと・・・
「無理」が大きすぎるのだ・・・

明治維新の後わずか二、三年で日本は教育を近代化させた。
近代化とは、それまでの主体である人倫教育の対極にある個人主義すなわち原子論的民主主義に寄与するためのものである。

論語を読む事を止め
書く事を止め
語る事を、止めた

「欧米列強に負けず日本を巨大国の一員にするには西洋の知識が不可欠である・・・」
と、これも日本の良いところなのか、それを一本気に受け入れたが、しかし、全部の日本人がみな子どもの心から心を奪い取り、知識を詰め込んだのだった。

百数十年続いたわけである。その事が。今、それら人倫教育を指導できる人もいないのが本当だ。

シーソーの、片方が重過ぎていたのである・・・

日本人は、道徳が最も嫌う、自己中心的個人主義の巣窟と成り果てた・・・

それが「無理」の正体であり、道徳の宣揚の前に立ちはだかる壁であり、腫瘍なのであり、あるいは指導者不在の元凶なのである。

子ノタマハク、弟子入リテハスナハチ孝、出デテハスナハチ弟、謹ミテ信、汎ク衆ヲ愛シテ仁ニ親シミ、行ヒテ余力有ラバナスナハチ以ッテ文ヲ学ベ

孔子は、人間生活や社会生活を以って全うした余力を文(学問)に充てるべしと説いている。
完成して然るべき人間というものの内実がその性にあるということを言おうとした訳だ。

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しかし、現実的に、今や学校においては心のノートを配布しつつ、心の教育(道徳)を行おうとしている・・・
心の教育と道徳教育とは似て非と思うべし、と、私は何度も繰り返しているが、気持ちとしてある「子どもたちへの恐怖心」を払拭するべく始められた取り組みをよそに、私も、ここに道徳を語ろうとしている。
では、私の語る道徳とは何か。
つまり、自由心理を社会の犠牲にしつつ宣揚されたが、しかし一方においては長きに渡り多くの人を魅了したこの思想にどう取り組むか・・・
私は、人間の太さ、深さ、大きさ、堅さ、強さを「美」とし、自ら(子どもたち)が有意義を感じられる道徳というものを編纂しようと思っている。

社会のため・・・それは結果である。

子どもたちのためになる道徳を、これから始めよう