大きな人間になってほしい

人間の大きさの一つとして

封建的でカビ臭い古典的書物、論語。
江戸期以前の武家が好んで拝読した古典の代表だ。

古典の類は、他にも、戦法戦術を語るものや忠義孝行を語るもの、あるいは人倫を語るものや社会思想に傾注したものなど多岐にわたるが、好みに合わせて手に取る武家や諸藩大名の多くが好んでいたのはやはり論語、すなわち孔子だった。

孔子は人気がある・・・
それは何故なのか・・・

私は、論語に内在する孔子の人間臭さがウケていたと思っている。
論語には、我々現代人に通う血肉と同等の生命的な温度が通っているのである。

では孔子を読んでみよう。

目的は、人間の大きさを考えるためである。

 

戦後民主主義による消費型資本主義に流々と飲み込まれた今の世で、人間の大きさとは、預金額や、有名度、家屋の大きさや愛車の車種に計られるが、それは浮揚した現代人の単なる錯覚であり、つまり人の大きさとは物理的なもので計りしめられないものなのだ。

 

孔子は言った

「どんな人間でありたいか・・・?」

孔子の頃の世の価値基準からして、その答えは、おのずと人間の大きさに関連するはずだ。これは、孔子が、弟子の顔回や子路と雑談していた時に出た言葉である。

子路は
「自分の馬車であろうと衣服であろうと、喜んで人に貸してやる。そしてそれが傷んでも自分は気にしない」
と言った。

顔回は、孔子に最も信頼されていた弟子である。
一門の中で最も寵愛されていた彼が言ったのは
「出来れば善行をひけらかさず、苦労は自分で背負いたい」
と発した・・・孔子は、黙ってうなずいた・・・。

 

すると子路が、孔子の意見を求めたのだ。

この様に、論語とは人間の普段のやり取りを基に編纂されているが故、人気があるのだろう。然るに孔子が言ったのは
<老者ニハ安ンゼラレ、朋友ニハ信ゼラレ、少者ニハ懐カシマレン>(公治長編)
つまり
「老人からは安心され、友人からは信頼され、子どもには懐かれる・・・そんな人間に、なりたい・・・」と。

この言葉には、人間の性(しょう)の誤りやすさが表現されている。
自らの成功をのみ望みつつ、あるいは自分を大きく評価させようと胸を張る人間は、この様にはならない。

 

小さい人間ほど自分を大きく見せたがる。

嘘をついてまで自分の評価を求めるのも小ささなのである。

物事を全て図りつつ、こうすればこうなる、あのように思われるためにはこうすれば良い、と、その様な計らいごとに明け暮れる人間こそ小人間であり、かつ、現代人の特徴とも言えるのだ。

人間の大きさは、自分を守らない事にある。

然るに子路が、他日に
「貧乏だからといって卑屈にならず、また金持ちだからといって傲慢にはならない。こういう人物はどうでしょう」
と尋ねた事がある。
すると孔子は
<イマダ貧ニシテ楽シミ、富ミテ礼ヲ好ム者ニハシカザルナリ>(学而編)
と・・・つまり、子路の言う事は確かに立派だが、さらに進んで、
「貧乏でも人生を楽しむ。金持ちでも心からへりくだる。こういう人物には及ばない」
と言ったのだ。

人生を楽しむ・・・
それはその人の大きさによると。

無理をして貧乏に耐えても仕方がない。
努力ということも同じである。自分の分量を知らず、自分の柄のみ大きく見せようとしても意味がない。
人間の大きさは、目に見えないが必ず他人に計られる。

孔子は、弟子の顔回を寵愛していたとしたが、顔回という人は生涯に渡り赤貧のうちにおくっていたという。
路地裏のあばら家に住み、一汁一菜を貫いた。
しかし顔回はいつも楽しそうだった。
孔子が惚れたのはそこだろう。
本心から、本当に、自分の境遇を受け入れる。
つきつめて、人間の大きさとはこのことなのだ。

想像して欲しい。
例えば幼稚園で、子どもに好かれる父兄には飾りがないことを。

それほど好きでもない子供たちに好かれようとして、わざとウケを狙ったり、執拗に関与しようとする親はあまり好かれないことを。
金持ちや社会的な地位があると子どもに懐かれないのは、虚栄が匂うからだ。
自らを大きく見せようとすれば、冗談さえ言えなくなる。

三枚目・・・でも実は力のある人間。
「あの人は実は物凄く偉い人らしい」
と言われる人が大きいのではないか・・・。