最も古くて新しい心の教育

日常的に使われる言葉や文字の中には、時に、正しく意味が自覚されていないにも関わらず流々と頭を通過する音のようなものがある。
解釈はしているが、それは単なる印象である。が、改めて定義しなくても不自由なく用いられ、その意味内容の輪郭を崩さず静かに主意を繋げるのだ。

然るに
時に心の教育と言い
時に道徳教育と言う

あたかも、症状を知らないところへ効能の知らない薬を投与するように、その必要性を意識されながらも道は明らかにされていない。
心の教育、道徳教育
その意(こころ)は繋がるが、あえて追求すれば輪郭が定まらない。
認識しなければならないであろう。
心の教育と、道徳教育は、違うということを。

 

音で解釈するのは間違いである。

 

どの道を行くのか。
その道を行けばどこに着けるのか。
その道は誰のため、何のためにあるものなのか。
それらの事を理解せずに処方する。これは、粛々と失敗を呼ぶ前兆なのだ。
すべからくこれらの必要性に覚醒していても、行くべき道が定まらないのならば、行かないほうがいい。
色々な事が起きている。
心の教育を愛と言い、気持ちの良い言葉を連ねて有名人として活躍したり、新興宗教の様なものを仕立てる人もいる。
青少年が犯した異常犯罪を道徳教育の不備のせいにする人がいたり、まるで動物を飼育するように子供を扱うことを肯定し、「教育」あるいは「更生」とした名の下で実践的活動を行っている人もいる。
対ムーブメントというムーブメントが、静かに、日本に形成されたのだ。

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「心の教育」
断言するが、これを語ることが出来得よう完成された知性は、日本仏教のみしかない。

 

「心」という抽象的な概念に対し真っ向から臨み、分解し、解読し、それを育てる手法にまでわたり明らかにし、編纂した。
先述したごとく萌芽を伸ばす新興宗教的解釈により心の教育を語る人たちが述べる事柄は、仏典の隅に平然と鎮座するべく二千五百年以上も前から記述されている事と変わりはない。
薄皮を重ねるがごとくして蓄積し、継承されてきた知性のほんの一枚を以って語っているのと相違ないのだ。

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「人には、威光の源となるべく善の素が普遍的に内在している」
釈迦はこのことを仏性と呼んでいた。

つまり心である。

釈迦は、心という不可知なるものを独立した実体として観じ、育てる知識を開発したのだ。

しかも、仏教には歴史がある。

例えば和辻哲郎氏が、その著書「日本精神史研究・岩波書店」にて道元を語る時
「我々の文化の本質がこの種の宗教家を願慮せずしては正しく理解せられるものではないことを明らかにし得れば自分は満足する」
とのたまうごとく、道元のみならず日本精神史の土台たらしめた多くの沙門は、仏意、すなわち心の荘厳を以って人間の本意とすべきとした価値観を継承し、日本の魂を固めていたのだ。

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日本の古と今を思い、浮かぶ映像は、かくも一律に内面を司る色である。
両者の温度差は精神にあると、識者のみならず誰もがそれを思うようになった。

私は、本当は、このコンテンツで仏教を中心とした「心に関する知性」を綴っていきたいと思っている。
が、しかし、私は僧侶でなく、僧籍も持っていない。

仏教の、異常に重い伝統に入り込むには軽薄すぎるのだ。

しからば工夫として、私は釈迦の世界観を科学哲学的に示唆する客観者の立場をもつことにした。

心の教育を論理的に綴り、「21世紀の心の教育」とした雰囲気を醸し出してみたい。