サムライISM

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サムライとして生きる

日本の国柄が形成される過程に於いて、肯定的な影響を与えた期間と言えば、ひとつに封建時代となるだろう。日本に、サムライという一つの精神的な色彩を創出させた。
が、事実として存在するサムライの起源は封建社会にあらず、それより遥かにさかのぼる平安あるいは飛鳥時代に隆起したものとされている。
そして、サムライに対し、厳密に、暖かく、生命の有意義を植え付けて、静寂にそして時に激しくと命の燃焼方法を教えた教育的な存在は、幕府ではなく時の皇室なのである。

(さぶらいひと)

と呼ばれていた。

これは『さぶらぶ』という動詞が名詞化したもので、主君の側近に伺候する従者をさす言葉であり、それも主君を守るために伺候するという意味であり、つまりこの言葉は、自力で自由の天地を闊歩するとした浪士浪人的勇者の意味ではなく、自分の命を他がために使用せんとした義侠的かつ武勇的性質をさす言葉なのだ。

天皇の、人を利他に生きさせるとした御心と、それを理解できる日本人の美的感覚が養分となり、人為的な試練を経て成立した超越的な「精神のカタチ」は、何千年もの間、哲学をして立体化された。

 

与えられた時間を力強く前進する意識がなければ知性の宝は輝かない。
人間が生きるうえで最も重要な能力は必ずしも知の領域にはなく、根源的なパワーすなわち生命力にある。
何にも負けず、己を固持し、自らに備わる使命的な能力を活かすためにも必要となる精神力こそが、生命の力なのである。
生命を、望まれたことの成就へと導くのは心理であり、それが心の筋肉である。
いうなれば、人間の理想を人為的に移植し、客観的な施しにより製造された者を「サムライ」と言うべきか。

超越人群。

今の世においても、この思想は成立する。
確かに、浮揚した世の中において硬派を気取るのは、異端か不良くらいに思われるだろうが、しかし、今の世の中に生きる者にも過去に生きる者にも共通する、すなわち正義を範としその価値の中に生きるとした社会的かつ人道的な人間というものは、真理の体現者であり、かついつの世にも不変的に求められるべき対象なのではあるまいか。
一億分の一でも、一兆分の一でもいいからその気概を自らの内側に教えるべきだ。
たとえ不良であろうと何であろうと、人は、凡夫から正義(真)の人に衣を変えるに違いない。

何がどう新しくなっても、真実は変わらないのだから。

 

 

 

補足・新渡戸稲造の武士道>>

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