概略6・自立を拒む日本

自立を拒む日本の無責任

戦後、日本は経済の立て直しを最優先し、経済政策の主軸を、輸出による外貨獲得すなわち貿易黒字増大路線とした。
原材料を安く輸入し、それを加工して製品化し、高く輸出するとした政策は、日本人の勤労体質と優秀な頭脳に見事合致し、次々に高品質な製品を開発したことで、貿易黒字は乗算的に伸びていった。
戦争賠償を30年ほどで終わらせ日本は、その勢いを衰えさせることなく、その後も驚異的な加速力をもって経済大国への道を爆走したが、徹底的に打ちのめされたと思われていた日本があっという間に経済大国へと成長したこの復活劇は、日本人の超越的な能力を再度、世界中に認めさせることにもつながった。

経済面で復活した日本。だが一方、戦争の相手国であったアメリカでは、世界中の投機マネーが集中的に流れ込んだことで一気にドルが上昇し、深刻な貿易赤字へと発展していた。
とりわけ、対日貿易赤字が顕著であり、このままいけばアメリカごと日本に買われてしまうのではないかとの懸念さえ抱かせたが、日本の金満ぶりに腹を立てたか危惧したか、アメリカは、1985年、ニューヨークのプラザホテルに先進5か国の蔵相・中央銀行総裁を招集し、為替の安定策として協調的なドル安路線を打ち出した。通称、プラザ合意である。
この時より、日本は、アメリカの対日赤字対策としての円高ドル安路線に誘導され、短期間で円が2倍に高騰。保有外貨が著しく目減りすると予想した日銀の金融引き締め策に対し、インフレ率の低迷と長期的な公定歩合の引き下げが予想されたことで、投機マネーが、不動産や株式市場に一気に流れ込んでいった。

1986年12月から1991年2月までの51か月間、銀行や一般の投資家は、土地担保融資に際限なく資金を拠出し、転がされる度に価値を膨らませていく土地やマンションから膨大な利益を得ていた。
主婦層にまで浸透した株式への投機は、証券取引所の高値記録を日々塗り替え、余力で購入した美術品や自動車なども、ついでのように価値を上げていった。
生活が豊かになると、急ぎ熱狂し、好景気の中で我を忘れる日本人に対し、天譴論に類する論調で危惧を抱く人もいたが、この頃の日本人は、さすがの天も見放す勢いで乱れに乱れまくっていたのである。

「良い時代だった」という人もいれば「あれがなければ・・・」と嘆く人もいるが、日本人の精神性といった観点から観れば、この時期こそが今の日本人を生み出す分水嶺として間違いないだろう。ヤクザさえも、完全に生き方を変えたのだから・・・。

クレジットカードの決済だけでも毎月1億円くらいあった人や、歯に大きなダイヤモンドを埋め込んでいる人、毎晩300万円くらい呑み代で使っている人や20億円もする車を現金で買った人、毎月の洋服代だけでも700万円以上かけている人など、私の周囲を見回しただけでも相当な猛者がいたのだが、驚いたのは、一般のサラリーマンが、長期のローンを組んでポルシェに乗ったりベンツに乗ったりしていたことである。
良い車に乗ればセレブになったと勘違いできるようだが、その手の人たちも含め、この後、日本経済が破たんすることなど想像もしていなかったのであろう。1990年3月。好景気に沸く日本人を横目に、大蔵省銀行局長の土田正顕が、「土地関連融資の制御について」(総量規制)を銀行に通達。さらに日銀が急激な金融引き締めを開始したことで、日本経済は想像を絶する勢いで破裂に向かっていったのである。

地価の急落により、土地担保に頼って過剰融資を行っていた銀行は、拠出していた債権を回収できず、証券会社は株価の急激な下落に対する損失補填に耐え切れなくなり、金融システムが破綻。多くの企業や資産家、一般家庭にまで深刻な影響を与えることとなった。
この経済の崩壊を招いた原因は、政策錯誤にある。
なのに政府は、一連の失策に対し、バブル崩壊という、あたかも自然災害のような名称を付けて責任をかわしたのだ。この頃、それまで金持ちだった多くの人が破綻したが、政府の責任を追及する余裕さえなかったのか、世の中には不況の風評が吹き荒れるだけだった。

日本政府は、内需拡大の必要性を説きつつ、いまだに貿易黒字という名の(国民目線からした)赤字を増やし続け、のみならず、円を市場に流す代わりに特別会計を使ってまでドルを買い付け、アメリカの潤いに貢献している。
バブル崩壊は政策錯誤であり、その後の「失われた20年」と呼ばれる大不況も政策錯誤であるのに、いまだに日本人を苦しめ、アメリカを潤わせるとした日本政府の政策、行為は、日本とは独立した国家ではなくアメリカの属国である、と思われても仕方ないだろう。
あるいはこの件ひとつを見ても、日本政府に、アメリカと対等に付き合う気持ちなどさらさらないということが十分に見てとれる。

日本国内では使えないドルをため込んで、世界第一位の債権国となっている日本。
基軸通貨がドルである以上、アメリカはドルを印刷すれば借金は無くなるが、現時点における日本国内の景気観は悲惨なものである。日本を会社に例えるならば、莫大な売掛金を計上し、黒字決算しているが、売掛金を回収しないので現金がなく、よって資金に余裕がなく、社員には安い賃金を強いるにもかかわらず、逆に金を借りるとした、ブラック企業のようなものである。このていたらくが、いつまで続くのか。

ちなみに世界第一位の債務国アメリカでは、日本からジャブジャブ貢がれるドルを使いきれず、仕方がないということでサブプライムローンなどをつくってみるが、運用益が出る前に簡単に破たん(リーマンショック)してしまう。
日本から貢がれるドルの運用に失敗しても、すぐに日本から追い賤が貢がれるので好き勝手しているが、本質的にアメリカはドルを軍事に使っているということを理解しておくべきである。日本は、国内に循環させるべき金をアメリカの殺人行為に投資しているのだ。戦後、日本の先達が流した汗水は、劣化ウラン弾や音速爆撃機に姿を変え、アメリカの覇権主義を根底から支えているのである。

また、いまの不景気は戦後政府の責任であり、借金も、国民が負っているのではなく政府のものであるのに、その穴埋めを消費税という名で国民から奪う方針つまり、金を貸してくれている人にその借金の返済をさせるとした補填方法を打ち出す政府の悪知恵は立派である。
そして、教わっても仕方がない、あるいは使用方法の無い知識を幼少期より詰め込まされ、知識量のみ増やしてきた日本人のほとんどは、こういった問題に関心をもつ知力を無くし、アリのごとく働き続けているのである。
本当に、ごくろうさまだが、自分自身に起きていることにしか気持ちが向かない今の日本人が相手なら、これまでの間、どれほどの数の逮捕者をだしたか分からないほどポピュラーな違法行為である博打を合法化し、利権にしてしまうことなど容易いことだろう。

日本、及び日本人は、戦後、幾度となく元の姿を取り戻すチャンスを見逃してきた。
ポツダム宣言を受諾し、戦闘行為を終結した日本は、戦勝国の立場にある連合国軍により国際法を無視した裁判にかけられ、これもまた国際法上存在しない「平和に対する罪」や「人道に反する罪」「戦争犯罪」といった意味不明の「罪」をもって裁かれたが、それでも、皇室の継続は許され、国土の分割も免れ、また、戦後、奪われた軍事力をも復活せよと言われていた。が、それなのに、変化を恐れる日本人は、自立することを自ら拒んでいたのだ。

日米が戦っている最中のこと。アメリカ国内では、親日派と嫌日派がそれぞれ様々な意見を酌み交わしたそうだが、それまで比較的仲が良かった日本人のことを悪く言うアメリカ人の論調の中に、「良い日本人はみんな戦争で死んでしまったから、生き残っている日本人は悪い日本人だ」というものがあったらしい。
然るに、そこまで極端ではないにせよ、日本人は、確かに、戦争を挟んで弱くなった。
戦勝国に押し付けられた憲法を見ても、同じ立場のドイツでは戦後、憲法(基本法)を58回も改正しているのに、怖がりの日本は、ありがたく頂戴したものとして大切に維持している。
これからは内需の拡大に注視した方が良いと教わったプラザ合意を経ても、ドル様を守るがごとくして貿易黒字を増やし続け、内需には目を向けない。
道徳観の欠落を危惧していながらも、古来より伝わってきた宝珠のような学問に目を向けず、誰が作ったかもわからないような法律に自分の行動を預けている。
凶悪犯罪の低年齢化に焦るが、子供に接する度量と方策がないために、法律の下位としてしか認識できないような浮薄な道徳を学校で教え、おとなしくなれと祈っている。
他人とのコミュニケーション能力に欠けているため、トラブルを解決する能力が著しく低く、よって何かあった時は法律と弁護士に投げて逃げてしまう。
街では、自分から喧嘩を売るような態度を見せたのに、反撃されそうになると怖がってすぐに警察を呼ぶ(何度も体験しているが本当に情けない)。
「自分のカラダを売っても誰にも迷惑がかからないでしょ?」とした援助交際に対し、明確な指導ができず、結局、後で負け惜しみのようなことを言う。
警察もそうだ。
ナポレオン的行政に刺激を受け、薩摩の郷党主義から脱してしまうほどの強い意志をもって日本に警察機構を持ち込んだ、薩摩藩の川路利良は、当初、「警察官は人民の為めには勇強の保護人なれば、威信なくんばあらず」とした熱意と「予防を以って本質となす」とした哲学を信じて警察行政の運営を始めたが、今では「自分の点数確保のために電信柱に隠れ、交通違反者に期待しドキドキワクワクする楽しみを、国家権力を傘にして味わう」ごとく、あるいは「人民の危機は、事件が起きてから対処すべし」とした非保護人に成り下がっている。盗撮や痴漢、飲酒運転を報道され、恥をかいているようだが、本質的な恥ずかしさは警察人の精神性にあると知るべきであろう。

SNSの世界も奇妙なほど現代日本人の質を表している。
世の中に対し、意見を述べるということは、昔からリスクが伴うものであり、あるいは一方では、ある程度の資格(人脈・著述出版などの工程・金銭など)が無ければ叶わないことだった。が、今では、SNSの普及により、人と対面すれば絶対に下を向いて黙ってしまうような小者でも、平気で大口を叩いたり、「論破」という、中身のない勝負事で優越感を味わったりする弱者が、本気で、名前も出せない自分の意見を世の中に公表し、あるいは誰かに反駁しているのである。
胆力なく、人と目を合わせては緊張してしまい意見がまとまらず、なるべく早く逃げたいのに気が合ったと感じたら馴れ馴れしくする輩の峻別に学歴が関係ないことも驚きである。頭が悪いのに高学歴という人物が優遇される日本に、日本らしさは戻らない。

では、結論として。
日本人は、外的要因により浮かれたり沈んだりすること甚だしい気質を古来から引き継いでいるが、浮揚した気持ちを自ら抑える力と、逆に沈下したときに自ら対応する力が、近代から現代にかけて、明らかに劣ってしまっている。
これは怒りに達する沸点と、自分を放棄してしまう凝固点との差が狭くなった事、ないしは、苦難や幸運に対する対処方法の稚拙さや対応するための知識の無さ、あるいは、それこそが人生であるといったような哲学が、日本人の思想から完全に剥がれ落ちてしまったことを意味するのではなかろうか。
感謝を忘れ、恥を忘れ、徳の意味を忘れ、バチや因果応報を忘れた日本人。
この原因は何かと考察するに、それは、絶対に注視しなければならないが、タブーであるがために、今まで避けて通らざるを得なかった、すなわち宗教思想の問題に直結するであろう。宗教の本質を学ばず、教えず、信仰に係るすべての動機をご利益(ごりやく)一本に絞り、あるいは多くの商業宗教が、貧者や病人、家庭不和などに付け込んで私腹を肥やしたことが、精神主義を肯定する純粋な土壌を荒らし、あるいは唯心論的思弁を拒否するための、暗黙的かつ普遍的な動機として根付いてしまったのである。
おおやけに通用する、当たり前の認識として、宗教は良いと思わない訳でもないが、自分とは無関係にしたい・・・とした論調が、安全と解釈されている。

日本人の多くに観られる感情的な優しさは、共産主義や社会主義(結果の平等から生まれる差を不平等として責任を社会に転嫁する)に興味を持たせる原因となり、あるいは中身のないお人好しや、弱い優しさ(愛の力で人は変わるみたいなニューエイジ)、いざというときには他人に頼るか、他人のせいにする精神性などを増長させることとなる。
精神大国日本を支える巨大な柱だった本質的な宗教感覚には、世の中は天国ではなく、人間とは苦しみ多きものであり、情の力で人は救えず、がしかし、鍛錬すれば、人は神になれるとした、言わば世の中を修行の場として想定するものだった。そして、その感覚が薄れたこと、これこそが浮かれて甘い日本人を創りだす諸悪の根源なのである。

 

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