概略7・合理主義、商業宗教

合理主義と商業宗教による精神主義の没落

日照りが続いて作物が育たない状態を旱魃(かんばつ)というが、旱魃の魃という字は、日照りの神様の名前らしい。昔の人は、旱魃になると、それは神からの戒めと考え、自能的に生活態度を鑑みた。日本人は、昔から、事変があると風儀の乱れに責任を鑑み、自らの生活姿勢を正そうとする習慣をもっていたのである。
だがしかし、例えば、それまで神と思い感謝の念を手向けていた太陽について、それは5800Kの表面温度を持つ直径140万キロの恒星で、4個の水素原子核が1個の水素原子核に変わる核融合により光と温度を放出しているただの星、という具合に解説されるようになったことで、八百万の神々さえ架空の存在とされてしまった。

我々の存在自体が空である。
共に空より出現し、共にこの世を生きる草木、魚や動物たち、そして月や太陽や石にいたるまで、それらは同胞であり、ないしそれらを侮蔑する事は自らを侮蔑する事と異ならない。と、このように繊細な、生命に対する尊厳こそが、人を人たらしめるのであり、あるいはそれを思えない、またはそのような思弁を冷遇するものは、過去日本においては精神的な未熟者とされてきた。
自然を超越せしめることにより生命の本意を得る西洋人とは違い、日本人は自然との共存により生命の本意を得てきたのだが、にもかかわらず、その共存は、単純な数式や実験の繰り返しにより無意味なものとなってしまったのだ。

『西洋文明には学ぶ事が多いが、求めている事とは少し違う』・・・

少なからず戦前までの日本人は、考えていた。
物や事には、生命にとって如何なる意味があるのだと。そして、仏教を学んだ日本人は、客観的な物や事は、全て個人の内側で展開される主観作用との相関関係においてのみ意味をもつことや、客体と主体との『関係』における『思い』しだいで、“物”も“事”も、その存在理由が変動すると理解していた。

『世の中とは心が排出する客観化現象である』

『主観的な位置づけにおける客観物という思弁の連続が心を心たらしめる』

生命の主軸とは精神活動のことであり、それは自らと世の中とを厳密に分離せしめることで立体化すると。

つまりその客観物には如何なる特性があり、あるいは成分や、形象形態や、反応形態は如何なるものかと、そのような、つまり西洋的かつ客観的な思弁は二義的なものであり、主観作用とは関係なく、知りたいのは「意味」でありその人にとっての位置づけなのだと。

二十一世紀・・・

美しさに対する驚きや込み上げる喜び、悲しみ、偶然とは思えない神秘的な導きを感じながらも、その主観的なささやきは、全て客観的な答えで処理されて、真実は、新しく理解したこととの間にある深い溝に遮られたまま橋渡しが出来ないほど遠い彼方へと追いやられてしまったのである。

『形相を有となし形成を善となす泰西(西洋)文化の絢爛たる発展には、尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは云ふまでもないが、幾千年来我らの祖先を孕み来つた東洋文化の根底には、形なき物の形を見、声なきものの声を聞くと云つた様なものが潜んで居るのではなかろうか。
我々の心は、此の如きものを求めて已まない』
明治期日本哲学界の巨頭、西田幾多郎氏のセリフである・・・。

唯心論的世界観は否定され、価値基準の序列は狂い、生きていく上で選択するべき道の幅を細められ、忠義孝行、仁、義、勇、知、信を守る者が笑われるようになり、「ヒトは必ず死ぬ」ことを知っていながらも、まるで働きアリの集団のように、不自由な秩序の上で刹那を暮らす臆病者が「普通の人」となった。
所有している車の価格と、自宅の敷地面積を成功のものさしとし、高価なものを身に着ければ中身が無くても上流、と勘違いし、あとは心を統制することなく思い付きで幸せだの不幸だのと言うようになった人々。
知識量は豊富だが、人間としてはか弱く、軽々しく、根も張れず、哲学がなく、自分を知らない人工的な人間を量産する国、日本。
誇り高き精神主義を生きる糧として最強だった日本人は、今やサムライ〇〇と言えどもサムライにあらず、金とモノを価値の第一とする、動物的で平凡な「ヒト科の動物」に成り下がってしまったのだ。

良い意味でも悪い意味でも変わり者な日本人

戦後の日本人は、疑うことなく、「本能」からくる考えを優先し、心の大きさよりも貯蓄高の多い人を尊敬し、幸せとは「欲の満足である」と豪語しつつ抱く底辺の価値観を盲目的に追いかけ続けた。

伝統的な思考が遮断されたことで、思惟が浅く、善悪の判断は法を基準にせねばならず。人との深くて良好な関係を作れず、顔や名前を隠せるとした条件を備えるインターネットでは擬人的な大物を気取る。

なぜ学校に行かなければならないのか?将来役に立つとは思えない勉強をなぜしなければならないのか分からない。

友達関係、親子関係、親戚関係など、人との関係についての認識を単なる好き嫌いで決める。

悪い事、してはいけない事、するべき事なのにしないという悪、といった行動に関して哲学が無い。

人に迷惑をかけないという事よりも、人から迷惑をかけられても許すといった精神的な器量を信じない。

自分で自分を見つめる技術やその意味を知らない。

経済社会のおおまかな仕組みや学歴の力、将来必要とされる能力とは何かを知らない。

将来に向けた可能性、生きる目的、幸せとはなにかといった価値の基準を俗欲に置く。

嫌いな人や苦手な人との距離にこそ人間の器の問題があることを知らない。

あらゆる場面、意味、行動に於ける絶対と相対、人為的な法と絶対的な法、真がどこにあるかを考えない。

日本人の素晴らしさや、世界との比較、その固有性、日本人としての誇りなどをGDPで表現する。

紀元前から始まった、世界一古い国日本の建国を知らず、その精神を知らず、そもそも自国の歴史を知らない。

仁、義、礼、智、信、忠、考、貞操など、無形の価値を信じない。

面白いのは、それでも生きていける、何とかなる、というか関係ない、としても本当に何とかなってしまうところにあるのだろう。あの世に持っていけるのは徳と業のみであるのに・・・。

 

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