中学1年生くらいから少々グレ始めた私だが、学校に行かない時はいつも犬の散歩をしていた記憶がある。
「なんで学校来ないの?」
「いや、犬の散歩が忙しくて・・・」みたいに。
5歳くらいの頃、父が、団地なのに白いスピッツを連れてきて、飼い始めた。
それからというもの、犬に対しては変に優しい人格が単独で成長していったようである。小学校低学年の頃に抱いていた将来の夢(?)は、保健所にマシンガンを持って入り込み、犬を殺している職員(スンマセン)を全員銃殺し、閉じ込められている犬を全頭開放するとした活動を全国展開することだった。
もちろん、今は落ち着いたが(←当たり前だ!)、私の政治活動の一つに「ペットの殺処分ゼロを目指す」というものがあるのはそこから来ている。
現在は、長男が幼稚園の頃に買ったMダックスとその息子(母犬は死去)を飼っているが、子どもたちの情緒を豊かにしてくれた原因に少なからず彼らが関与していたことは否めない。
ペットを飼育するにも買主の心の大きさが必要となる。
家族の一員として向かい入れたペットを殺処分してしまう買主の中には、事情というよりも、自分の心に、ペットを受け入れられる分、余分なスペースが無いことを悟れずに、ペットを買ってしまった人もいるのだろう。
実の父母よりも私のことを大切にしてくれている頭山のご夫妻が、ご病気になったと知らされた時は、悲しさのあまり涙が止まらなくなったが、悲しくて泣いたのは、大人と呼ばれるくらいの年齢になってから初めてのことだったと思う。犬に対して流す涙が無くなったのは、濃い経験を重ね過ぎたせいなのだろうが、それで自分の心が曇ってしまったのならば、私に器量が足りないということだ。
たとえ相手が犬でも、出来る約束は必ず守るとした姿勢に自分を立て直さなければならないと、この文章を書きながら思った。
その程度の人間が、生きているものの面倒を見ようとしたのが僭越だったのかもしれないが。