長男は、大学2年生。
プロ野球選手と多くの縁があった私だが、私自身としては何ら野球に興味が無く、「将来は息子とキャッチボールをしたい」とよく聞く親父の夢物語など一度も口にした事は無いのだが、息子が小学4年の頃、たまたま遊びでキャッチボールをしたところ
「野球をやりたい」
というので、学童チームに入団させた。

多分、日本で下から5番目くらいに弱いチームだったのだが、私も活動に協力し、同時に野球を勉強し始め、結局コーチになり、それから長く続く野球の道に息子と一緒に入っていった。

1年ほどで娘の高校進学のため東京都市部に引越し。
楽しかった最弱チームの子供たちとお別れするのは寂しかったが、息子にしてみればステップアップの機会である。
考えもしなかった土地ゆえに右も左も分からず、どんなチームがあるのかさえ分からぬまま、勢いで、硬式野球チームに入団。
毎年のように全国大会進出の可能性を持ったその名門チームでは、練習にはついていけるものの試合にはほとんど出られず、辛酸を味わったが、一度たりとも諦めず、毎日、学校から帰ってくると私を練習に付き合わせた。
中学生になっても同じである。
平日、土日と休むまもなく練習した彼であった。

そして高校進学。
彼の実績は白紙に近いが、気持ちが折れることはなかった。
絵に描いたように、その頃から、それまで溜め込んだ養分を形にするべく萌芽を伸ばし始め、それまでは一応、西東京でベスト16に入る程度の学校だったが、入学して早々1年生の夏からベンチ入り。
2年生になると一桁の背番号を背負い、いつの試合においても先発レギュラーとして水を得た魚の様にグランドを泳ぎまわっていた。

そして3年夏、彼はキャプテンとして強豪校との試合に勝ち進み、甲子園をかけた神宮大会にまで昇りつめる。

最後、彼の頭上を超える打球を、無理と分かりつつも追いかけたがグラブの遠くを通過。ベスト8で試合終了。試合後の、保護者らに向けた彼のあいさつは、悔しさなど微塵もない、やり切った男による、涼しげなものだった。

野球はもうやめよう・・・と、思っていたようだったが、無名と言えば無名だった高校が突然ベスト8までいったことで、当然のように、強い大学から引っ張られ、強豪大学へ進学。ここでも、50名以上いる同学年のスター達を尻目にひとり、1年生から公式戦に出ていたが、

「チームに気持ちが入らない」

とした、言うなれば、厳しい野球を耐え続けてきたことで培われた、彼の潔癖性が邪魔したか、1年の冬に突然の退部。

 

息子「野球やめます。色々とありがとうございました。ごめんなさい・・・」
私「なんで謝る?」
息子「いや・・・お金とか無駄にしたし・・・」
私「アホか。んなもん気にするな!そもそも払ってないわ!はっはっは~~」
息子「・・・・・」
私「で、これから何に向かう?」
息子「アメリカに留学したいです」
私「ほう・・・アメリカ人になるの?・・・ですか・・・?」

息子「・・・・」