「うちの子は最近こうだ・・・」
「うちの子のここが気に入らない」
「こうあってほしい・・・」
私は、世間の感情論や理想論に応えるべく、子どもたちに感じる様々な「迷惑」や、「親の利己的な希望から生じる不安」を取り除くためにこのプロジェクトを始めたわけではありません。

不愉快なのは、あらゆる子どもをその理想(社会的に無害な人間)にハメ込むように、学校が指導をし、あるいは刹那的な判断により子どもの行動に善悪や良否を与えようとしている、という事です。

社会が、心の教育や道徳教育を求めている。
如かしてその背景には、日本人が小さくなったのか、あるいは大人(社会)が、子どもを扱えなくなったという哀れな現実があるのではないのでしょうか。

子どもが、社会にとって重荷に感じるということは、民度の低下を意味しているということであり、大人が大人でなくなったということにも繋がると思います。

「心の教育」・・・

社会的かつ普遍的に言われているこの言葉に対し、この論理からして答えるのならば、「子どもとのコミュニケーションをとる方法。や、倫理教養を大人に教える」のが一番効果的とはならないか。
援助交際やカジノの合法化が良い例だ。

 

今の子どもたちは、人としての本質的な生き方を知らず、人としての本質的な価値観を知らず、人としての本質的な意義を知らず、人としての本質的な喜びを知らず、そして人としての本質的かつ一義的な使命を知っていない。
将来のことを考えていない。
自分自身を大切にしていない。
あるいは大切にしすぎている。
もっと他に有意義な事があるという事を知っていない。

「真面目に生きている人は、他者の不真面目を受け入れられない」、という面もあるが。

サムライ日本人は、「善」「正義」「倫」「道」あるいは洞察力や判断力。
自立、利他、寛容。
これらのことが、至福のための条件であり、かつ生命をより善きものへと導くサプリメントのようなものである事を知っていた。

それを理解すれば能動性が現れる。

「思いやりをもちなさい」
と、言うのではなく、思いやる価値や、思いやりという心の行為が引き起こす効果や構造について知ることができたのならば、能動的に善を求めるようになり、あるいはそれが「力」となり、生命の本質をも悟れるのだ。

人は、利により動くものである

あるいは「知る」ということにも種類がある。
自らにとって「善(広い意味での)」というものが如何に有益であるものか。
あるいは、弛緩しつつ思いつきで生きることや、社会性を持たない(持てない)ということがどういうことなのか・・・
それらを、具体的かつ科学的に知らしめる事により、子どもたちは納得し、変わるだろう。
「子どもたちのためのサムライ教育を・・・」
それが私の本意である。