・忘れられた教育の目的ー道徳の本質4英雄を生まない戦後道徳2

 

子供の自由を奪い、社会の単位としての人を作ってしまう戦後道徳。


封建的なカビ臭さが漂う古典的書物、論語。
江戸期以前の武家が好んで拝読した古典の代表だが、古典の類は戦法戦術を語るものや忠義孝行を語るものあるいは、人倫を語るものや社会思想に傾注したものなど多種多様な目的がそこに孕まれつつ編纂されていたのだが、好みに合わせて手に取る武家や諸藩大名の多くが好んでいたのはやはり論語であり孔子だった。

孔子は人気がある・・・
それは何故なのか・・・

私は、論語に内在する孔子の人間臭さがウケていたと思っていた。
論語には、我々現代人に通う血肉と同等の生命的な温度が今だに通っているのである。

では孔子を読むが、これはこのコンテンツに縁があって読んでいる、つまりあなたの立場に変換しつつ子どもと対面した場面を移植して考えて欲しい。目的は、子どもに人間の大きさを教えるためである。

戦後民主主義による消費型資本主義に流々と飲み込まれた今の世で、人間の大きさとは、およそ預金額や、有名度、家屋の広さや愛車の車種が基準となるのだろうが、それは浮揚した現代人の単なる錯覚なのである。人の大きさは、物理的なもので計りしれないものなのだ。

「どんな人間でありたいか・・・」

その頃の世の価値基準からしてその答えは、おのずと人間の大きさに関連しよう・・・これは、孔子が弟子の顔回や子路と雑談していた時に出た言葉である。

子路は
「自分の馬車であろうと衣服であろうと、喜んで人に貸してやる。そしてそれが傷んでも自分は気にしない」
と、この様な人間になりたいと、言った。

顔回は、孔子に最も信頼されていた弟子である。
一門の中で最も寵愛されていた彼が言ったのは
「出来れば善行をひけらかさず、苦労は自分で背負いたい」
との言葉である・・・孔子は、黙ってうなずいた・・・

すると子路が、孔子の意見を求めたのだ。
この様に、論語とは人間の普段のやり取りを基に編纂されているが故、人気があるのだろう。
そして、孔子が言ったのは
<老者ニハ安ンゼラレ、朋友ニハ信ゼラレ、少者ニハ懐カシマレン>(公治長編)
つまり
「老人からは安心され、友人からは信頼され、子どもには懐かれる・・・そんな人間に、なりたい・・・」と。

この言葉には人間の性(しょう)の誤りやすい行いが凝縮されている。
自らの成功をのみ望みつつ、あるいは自分を大きく評価させようと胸を張る人間は、この様にはならない。

小さい人間ほど自分を大きく見せたがる。

嘘をついてまで自分の評価を求めるのも小ささなのだ。

物事を全て図りつつ、こうすればこうなる・・・あのように思われるためにはこうすれば良い・・・と、その様な計らいごとに明け暮れる人間こそ小人間なのであり、かつ、現代人の特徴とも言えるだろう。

人間の大きさとは、自分を守らない事にある。
然るに子路が、他日
「貧乏だからといって卑屈にならず、また金持ちだからといって傲慢にはならない。こういう人物はどうでしょう」
と尋ねた事がある。
すると孔子は
<イマダ貧ニシテ楽シミ、富ミテ礼ヲ好ム者ニハシカザルナリ>(学而編)
つまり、子路の言う事は確かに立派だが、さらに進んで、
「貧乏でも人生を楽しむ。金持ちでも心からへりくだる。こういう人物には及ばない」
と言った。

人生を楽しむ・・・
それはその人の大きさによる。

無理をして貧乏に耐えても仕方がない。
努力ということも同じである。自分の分量を知らず、自分の柄のみ大きく見せようとしてはならない。
人間の大きさは、真実に現われる。

孔子は、弟子の顔回を寵愛していた・・・としたが、顔回という人は生涯に渡り赤貧のうちにおくっていたという。
路地裏のあばら家に住み、一汁1菜を貫いた。
しかし顔回はいつも楽しそうだった。
孔子が惚れたのはそこだろう。
本心から、本当に、自分の境遇を受け入れる。
つきつめて、人間の大きさとはこのことなのである。

想像して欲しい。
例えば幼稚園で、子どもに好かれる父兄には飾りがないことを。
金持ちや社会的な地位があると、子どもに懐かれないものである。それは虚栄が匂うからなのだ。
自らを大きく見せようとすれば、冗談さえ言えなくなる。

三枚目・・・でも実は力のある人間だと。
「あの人は実は物凄く偉い人らしい」
と言われる人が大きいのか・・・。