農耕民族である我々の先祖が恐れた旱魃(かんばつ)の(魃)の字は、日照りの神の名前だそうである。
長く雨が降らぬのは魃による戒めであると、彼らは懺悔し、神に供養した。
たった一度だけの旱魃によりそれまでの一年が無駄になり、その先の一年が消滅してしまう。
『なぜ、こんな目に遭わねばならぬのか』
と、このとき浮かぶ -なぜ- の思惟は現実の中に行き場がなく、ゆえに自動的に神仏論へと内省を運んでいた。
日頃の行いの中に不浄はなかったか・・・
神に障るような罪を犯していないかと、彼らは、誰に強要されたわけでもなく各々に神を覚えていたのだ。

 

(日本人とは何か)ということを虚構せず宣うために頼れる客観者の言葉がここにある。これは、日本に始めてキリスト教を布教したフランシスコ・ザビエル(1506~1522)ら宣教師の言葉である。

日本人ほど盗みを嫌う人民は、世界にない。

父母を尊び、もし親不孝する者あれば必ず神罰を被ると信じ、

名誉を重んじ、貪欲を嫌い、

勇気があって忍耐強く、災害にかかっても悲しまず、危難に直面しても恐れず、

喜んでも怒ってもそれを顔色に表さず、多言を卑しんで言葉数が少ない

文献 少年日本史 平泉 澄 時事通信社

というものだ。

 

加えて日本人は、そうあることを名誉とせず、そうでないことを恥としていた。
高度な精神主義者たらしめんと、これは単に、天の赤子に能うその価値を内に醸成させた結果なのであろう。

 

たとえ孔子が神を語らなくても、日本の儒学道徳ではそれを語った。
『日本人は、親不孝すれば必ず天罰が下ると信じていた』
ザビエルら宣教師が言うごとく我々の先祖は、徳治であろうとも実証論的であるそもそもの儒学に実在論的空間論的な概念を挿入し、和学の一つとして独自の道徳体系を編纂して馴染んでいたのだ。

 

これは感覚の問題であり、あるいは歴史と仏教が作り上げたセンスなのである。
そのセンスが、魂より溢れんばかりの強い精神性を発露させ、年少者であろうともその形而上学的な理性を弛緩させないとした、善への磁力たらしめていたのだ。
力のあるセンスであった。
そしてそれは実在論として繰り広げられる空想世界に依拠するものではなく、我々の祖先が具体的に経験することによって実証論化した、つまり事実に基づく知性だったのだ。

 

日本人らしさ・・・

 

これがセンスである。今や、あまり関心されないこの言葉は、しかし我々日本人の心の奥深くには、「善」、あるいは「聖賢なる大人」の手本として確かに呼吸しているのである。

 

日本に孕まれた多くの知性。それは、あらゆる真に通じる素因が集結した泉である。
胚芽より萌え、花が咲き木となる形態が不変であるように、人間の命運は、そもそも着胚されてきた真実の心にまず養分を与えることが始めであり、道理であり、不変の順位なのである。
日本人を自覚して社会を生き、心は愉悦に溢れさせようと。
今こそ、日本人が日本人に帰るべき時なのだろう。

人格的なセンスの長養を目指すこと。それが子供にも大きな影響を与えるのだ。