日本人は、クリスマスを祝って、大晦日や新年には神社に参拝、お盆になるとお墓参りに行くから多宗教である。いや無宗教だ。いやいや宗教的な節操がないからだ。などと言われておりますが、私たちにとってのクリスマスはただの楽しいイベントであり、初詣や墓参りは文化であり風習です。信仰と習慣とが微妙な距離感を保って共存している国、それが日本といえるのです。

が、しかし、そのような日本において、具体的な宗教の話しとなると微妙な距離感がバランスを崩すのでしょうか、戦前までは、深い信仰に支えられて長い年月を過ごしてきた日本人なのに、お人よしで騙されやすいという民族性が多くの商業宗教に利用されまくり、今では、人前で宗教の話しをすることが困難な国になってしまいました。

 

公的機関ではない一般の組織が、「心の教育」という言葉を出しにくい背景にも、危なっかしい商業宗教に対するアレルギー反応があるのではないでしょうか。日常的に使われる言葉や文字には、時に明確な定義が自覚されないにも関わらず通じるものが多くありますが、「心」という言葉もその中の一つです。心の教育を愛と言い、気持ちの良い言葉を連ねて新興宗教の様なものを仕立てる人がいたり、青少年の犯罪を心の教育の不備のせいにする人もいる。色々な事を言う人がおり、危なっかしいし、必要なものでもなかろうから、という風潮が、児童期に施されるべき重要な教育を与える機会を逃しているに違いないのです。

 

心とは何か・・・
少なくても戦前の日本人は、この問いに対して、人それぞれであろうとも明確な答えを持っていました。
なぜならば、「心」の事柄を明確に語っている完成された知性は、他ならぬ日本仏教のみであるからです。
心という、抽象的な概念に対し真っ向から臨み、分解し、解読し、それを育てる手法にまでわたり明らかにし、編纂した仏教。
他述したごとき新興宗教的解釈を香らせる「心の教育者」らが述べる事柄は、仏典の隅に平然と鎮座するべく二千年以上も前から記述されている事と変わりないのです。
薄皮を重ねるがごとくして蓄積し、継承されて来た知性のほんの一枚を以って語っているのと相違ないのです。

 

「人には、威光の源となるべく善の素が普遍的に内在している」
釈迦はこのことを仏性と呼んでいた。

つまり心である。

釈迦は、心という不可知なるものを独立した実体として観じ、育てる知識を開発した。

ここには、歴史がある。

例えば和辻哲郎氏が、その著書「日本精神史研究・岩波書店」にて道元を語る時

「我々の文化の本質がこの種の宗教家を願慮せずしては正しく理解せられるものではないことを明らかにし得れば自分は満足する」

と言うがごとく、道元のみならず日本精神史の土台たらしめた多くの沙門は、仏意、すなわち心の荘厳を以って人間の本意とすべしとした価値観を継承し、日本人の魂を固めていた。

 

日本の古今を思い、浮かぶ映像は、かくも一律に内面を司る色である。
古今両者の温度差は精神にあると、識者のみならず誰もがそれを思うようになった。

私は、さしあたり「心」の話しを行う際には仏教で語られる「心に関する知性」を頭の隅に置いている。
が、しかし、私は僧侶でもなく、あるいは正しく修行しそれを宣揚するとした資格も持っていない。仏教の、異常に重たい伝統に入り込むには軽薄すぎる存在とも言える。

ならば、工夫として、私はこのコンテンツに科学と仏意の融合を試みるべく、客観者としての立場をもつことにした。

教育に宗教を持ち出す必要はないが、厳密にいえば、ある。しかし、宗教的な勉強を行っても、親としての心構えが変わるわけでも子供の表情が変わるわけでもない。が、むかし、当たり前のように感じていたある種の「感覚」を思い出しつつ、もう一人の自分が、自分と子供との関係を監視していると思えば、あらゆることを冷静に受け入れられるようにはなるまいか。この項は余談的だが、何かを感じてほしいと思い書いた。