科学が認めた日本の思想

 

私は、父との縁が薄かったので、主系側の自分の先祖や家柄のことがよく分からないのだが、傍系では、昔、葬儀に皇室から参列者が来られ、白装束が街を歩いた、とか、明治時代、まだ卒業証書に「平民」などの階級が記されていた頃、祖父や祖父の兄弟が渡された卒業証書にだけは菊の御紋章が入っていた、などといった話しを聞かされたことがある。

 

今ある自分には、先祖代々からの遺伝的要素の他に、見えない遺伝子とでも言うべきか、先祖らが積んだ業や徳、人間関係や念といった、過去からの霊的な繋がりも作用していると「実感」している私だが、縁あって、頭山満直系三代目の当主と本家に仕えさせて戴いているとした今を思慮しただけでも、自分の先祖には、何か分からないが何らかの徳の力が累積していたか、何か分からないが何らかの期待や、私に託したいものがあるのだろうと感じている。

 

また、人の一生は、生まれた時点である程度決まっている。という人(自分も含めて)がいるが、そのような、形而上学的な観点から自分のことを考えると、私の人生を構成する要素の一つである「縁」というものに、一定の共通点があると気づかされる。子どもの頃から、私には、常に、その場面や時期、状況の中にあって、必ず、私の支えになってくれる誰かがいて、しかもその支えになってくれる人は、その時々に於ける最強、最大、あるいはとてつもなく大きな人物だった。

自分は、自分のちからだけで生きているわけではなく、陰で作用する何らかのチカラに支えられているからこそ生きていられる。という考え方をし始めたのは二十代半ばの頃からだった。中卒の、金のない、ただの不良で、家柄が良いわけでもなく親が金持ちなわけでもないのに、二十歳で家を買い、バブルのお陰で6倍くらい価値が高騰し、しかしそこに頼るわけでもなく事業を展開し、二十代半ば以降は世界を飛び回る青年実業家になっていた。他人は、「よほど悪いことでもしなければあんな金持ちにはなれない」と陰口を叩いていたが、私は、実業家として、健全に法人経営を行い、成功したのだ。悪いことをする必要もないし、それより正業をしていれば悪いことをする以上の金が入ってきた。頭が良いとは決して言えない自分でも、なぜ、世の中が、自分の思い通りかそれ以上の成果を自分に運ぶのか、ということを考えずにはいられなかった。

 

仕事以外にも、色々と不思議なことがあり、普通の人は体験しないであろう色々な事を体験しつつ、この、私に作用するちからは何なのか、あるいはコントロール可能なものなのか、どうすれば作用がもっと強くなるのだろうかといった思弁が時を追うごとに強くなり、その答えを求め、毎日、それこそ派手な遊びをやめてまで、様々なジャンルの本を読みあさった。そして、三十歳を過ぎた頃、ある出会いをきっかけに、その答えは解決した。

 

然るに、この講で、私が最終的にたどり着いたものの話しを述べていくつもりはない。

 

仮に述べたとしても、それは単なる知識として聞き手の脳を通過してしまうか、「今の世の中では通じない」と、拒絶されるのがオチだからである。誰もが、「科学的ではない」と思うだろう。がしかし、私は、そのような、形而上学とも言い、精神論とも言い、あるいは宗教学とも捉えられるような神秘的な話しが、精神国日本の国民に通用しなくなったこと、あるいは、様々な精神論や宗教に対する正邪の峻別、吟味するための知識、反駁するに足りるロジカルな思考が、日本人の頭の中から消滅してしまった現状に、危惧を覚えているのである。

 

日本という国、そして日本人は、全人類的に見て、いまだに不思議な存在であり、かつ特別な存在であり、そして、使命や責務を背負って生まれてきたと思われても不思議でない存在だと思われる。

その日本人を作り上げた骨子は、精神主義であり、精神主義を支えた学問は、神道と仏教だった。

今の時代において、神道も、仏教も、信じるか信じないかの領域に追いやられてしまっている。

八百万の神は単純な物理法則に書き換えられ、人間は、死んだら全てがおしまいと、科学に思わされているからだ。

 

 

しかし、20世紀中葉、デンマークの首都コペンハーゲンで展開を始めた学問の一派、コペンハーゲン学派や、相対性理論を完成させたことで知られるアインシュタインらは、世の中の全ての不思議を解明したとされてきたニュートン力学を、それは古典的な考え方で、それを用いても世の中の仕組みのほんのわずかな部分しか説明できないと述べた。

 

21世紀にはいった頃には、宇宙の始まりであるとされてきたビックバン理論に疑問が投げかけられ、実験結果は観測者から影響を受けることや、世の中は50%の確率で実体が無いとした理論が打ち出されたが、この進歩の過程において、多くの天才科学者らの口から「先端科学と東洋思想との符合点」について語られたことが、世界中の学者を驚かせた。

 

アインシュタインが、インドの大詩人タゴールの元へ行き、「私が見ていないとき、月はあるのか」と問いかけた話は有名になった。そして、先端科学は、次第に、むかしの日本人の価値観、あるいは現代社会において信じるか信じないかとされてきた領域を、信じるべき、と示唆するべく、新しい理論を引き下げて古い考え方に歩み寄ってきたのである。古代日本人の足跡を遺伝子科学が捉えたように、日本人の伝統的な思想も、科学哲学により立証される日が近いだろう。

 

西洋人の考え方に侵略された日本人の脳は、まんべんなく唯物論的思考に変換されている。

 

宗教観も、感謝や、供養、崇拝ではなく、ご利益が本位となっている。

 

損得にしか価値を覚えない今の日本人に古典的な日本思想を見せても仕方がないと思われるが、アジア各所で発祥した様々な知識が最終的に日本に流れ込んだことと同じように、ヨーロッパで発達した科学哲学的な思考が、長い年月をかけ、発展しつつ、大きく西側を回って日本に漂着したのである。

 

「科学的でない」という人は、どれくらい科学を学んでいるのだろうか。

 

私は学者でも研究者でもなければ識者でもない、ただの浪人である。よって、難解な数式など解らないし、理論の深部にまで考えが及ぶわけでもない。が、だからこそ、科学の学術的な解釈とは縁のない方々に対し分かりやすい話しができると思っている。

普段でも、時々だがこのような話をするのだが、聞き手がどんどん引き付けられていく様は実に面白いものである。

自分自身の、日本人としての思想浄化として、是非、注目していただきたい。