昔からよく聞く言葉に「命の次に大切なのはお金」という言葉がある。

車も家も、服も時計も、金があれば買えるから・・・

すると、「愛は金では買えない」という、これまた決まり文句を言う人が出てくる。

「いやいや、金がある人間にかなう者はいない。女だって、現実を求めるでしょ?四畳半一間にミカン箱を置いてお茶漬けを食べる生活を望む女はいない!」といった感じで結末を見るが、お金を価値の第一基準に置くことに対し、少なからず反駁する人の気持ちは分からなくもない。何故なら、それが真であり、日本人が長年付き合ってきた思想であり、日本人の遺伝子に染みついた価値観だからである。

自分より弱い人間を騙して金を奪うという行為、恥のレベルで言えば最高位のみっともない行為だが、得た金は使えば無くなるが行為は記憶に残るし、他人に知られれば、同類の俗者でもない限りバカにされし人として相手にされないだろう。死ねば地獄行きと思う人もいる。が、それでも、金の方が大切なのだろうか・・・?

幾ら追い銭を払っても消えない恥を自分の魂に彫り込んででも、金が欲しいのか・・・。

 


 

ルース・ベネディクトは、その著書「菊と刀」で、日本固有の文化を「恥の文化」、欧米の文化は「罪の文化」と規定した。

著名な文化人類学者である彼女は、「菊と刀」を出版し、大いに評価されたために、日米において知日家の代表のように呼ばれたが、残念ながら彼女はアメリカ人であるが故、日本文化の研究もアメリカ人的な器量でしか行えない。アメリカ人の器量で日本人の精神文化を語るというのは、あまりにも僭越なことだろう。少なからず、「日本人は悪い行いが他人に知られなければなんとも思わない。何故なら日本は多神教であり、あまり神を恐れていないからだ」という推測は間違いだ。日本人は、他人が見ていなくても心が許さない。神は、バチという形で覚醒を促す。といった思想で生きてきた。

 

そもそも日本人の宗教観念は、神を相対的かつ独立した固有の存在として意識し、願い事を叶えてもらおうとする様な西洋的な信仰とは違い、自分の内にある性(仏性)を清め、鍛え、あるいは自然崇拝的な寛容さを以って他者や客体を敬うとした特徴により成立してきたものであり、教義は、出家した僧侶でなくても、個々に、家庭や社会環境の中から、生きていくための常識として教わるものだった。信仰がある、無いに関わらず、あるいは人により相対する「神」が違えども、日本人が認識する「空間」には「目に見えない何らかの存在(力や作用)」があり、内なる存在すなわち、心か魂の状況により、因果応報的に身辺の状況や待遇が決定される。だから、人に笑われるような行いや器量の小ささを恥として忌み嫌っていたのである。そして、その思想こそが「日本人の心」を色づける文化の素材だったのだ。

日本人が変質したのは、西洋思想を取り入れたから、あるいは取り入れた西洋思想と持ち前の思想(東洋的)との内部的な融合が上手く出来なかった事が原因だが、日本の思想、宗教観をすっかり忘れた現在に至っては、比較のしようもない。

 

 

金は金。名前が書いてあるわけではない?

ごもっともだ。が、金は稼ぐものであり奪うものではない。

稼ぐ能力に乏しい貧者は、卑怯でも、薄汚い心と言われようが、後で後悔しようが、金を欲しがる気持ちに負けるので悪事に興味が向いてしまう。

稼ぐ力がないから、あるいは稼ぐ頭脳がないから、悪事に説得力を感じてしまう。

その金を使うとき、使ってもらった側は、金を稼ぐ力のある人物、知者、紳士と思うかもしれないが、そうだとして現実とのギャップを恥ずかしく思わないのか?

こうした時、いや、こうしようと思うはずもなくしかし、人として恥じる行為を、意識せずしても行ってしまった時、サムライは、自分を後悔し、軽蔑し、その恥をキッパリと洗い流すべく、その恥もろとも切り捨てるがごとき気概により自分で自分のハラを掻っ捌いた。

 

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